茂木健一郎、「生きて死ぬ私」読みました。
「生きて死ぬ」とはこういうことだ、ってのを論理だてて展開するような本かと勝手に思っていたんですが、内容的には極めて雑多な、いわゆるエッセイでした。
アマゾンで注文したら、今朝届いていたので、電車でまず新聞を読んで、それからこれを読み始めて、ふーんと思いながら、なんとなく読み終わってしまうような、そんな本でした。
もちろん、難しい言葉や、考え方なんかもありますが、特に引っかかることもなく、するっと最後まで行ってしまいます。
あとがきで、本人は自賛していましたが、そこまでの内容ではないような。
この本は、1998年に出版されました。著者が33歳のときです。ここに書いてある内容は、当時はまだ革新的なものだったのかもしれませんが、今読むと、「そんな考え方があったのか!」っていうような、新鮮な驚きはありません。
ただ、新鮮ではないにせよ、やっぱり面白いなあというテーマはいくつかありました。
例えば、心。
この前、NHKでうつ病のドキュメンタリーを見た時にも思いましたが、心ってひどく抽象的なものではありますが、確かに存在します。でも、人間の肉体の中で心という部位はありません。心は脳内でシナプスが発火した結果でしかありません。ただ、その発火で、今、この文章を書いている私もいますし、今飲んでいる泡盛の舌触りや香りなんかも知覚しているわけです。
洗濯機の回る音、空気清浄器から微かに流れ出るひんやりした空気、キーボードを押したときの感触、ダウンジャケットの肌触りと温度、今これを書いている瞬間にも感じている、あらゆる質感(クオリア)が、すべてシナプスの発火から生まれていて、それは物質的な現象でしかないわけですが、私の心にはそれらの質感が鮮やかに感じられるわけです。
物理的なシナプスの結合と、私の心の動きが、なぜイコールになるのかってのは、とても不思議で科学的に明確な説明ができないそうで、それが茂木さんの研究テーマになっています。
でも、私のシステム屋としての感覚で、コンピューターの世界となんか似ているなあと思いました。
コンピューターの世界は、いくつもの層(レイヤー)で構成されています。
最下層では、LANケーブルであったり、半導体であったり、電気信号が行き来する物理的なハードウェアでしかありませんが、PCの画面に表示されるのは、もっと人間が理解しやすい絵や文章だったりするわけです。
物理層では、単なる電気信号でしかなかったものが、論理層では、人間にとってより意味のあるコンテンツに変換されています。シナプスもそんな感じなんだろうなと思います。
ただ、心との大きな違いは、コンピューターは意思を持たないことです。
2001年宇宙の旅のHALは自我に芽生えていたので、これからコンピューターが進化していく過程で、もしかしたらそういうことが起こるのかもしれませんが、現時点では、まったくその可能性はありません。
話がそれてしまいましたが、この本ではそのクオリアが重要なテーマになっています。
著者がクオリアの説明をするときに、少年時代に蝶を追いかけた話がありました。図鑑でしか見たことがなかったメスグロヒョウモンという珍しく美しい蝶を見つけたときの感動と、それを捕まえようとして果たせなかったときの放心、その記憶が鮮やかに心に刻まれていて、明確な質感(クオリア)を持って蘇るんだと。
これも、とても理解しやすい感覚だと思いました。
日の出前の夏の日に、車を運転して釣りに出かけます。湖に近づくと、開けた窓から、湿った水の匂いが車内に入ってくる。ワクワクしながら車からボートを下し、準備をすまし、湖面にボートを浮かべて静かに滑りだします。ポイントに慎重に近づきキャストすると、竿から伸びた糸が横に走り、慌てて合わせる。すると確かな魚の手ごたえがあり、竿が大きくしなってリールが大きな音を立て、みるみる糸が出ていきます。魚はジャンプを繰り返してなんとか逃げようとしますが、最後には観念してひょっこり顔をだし、網の中に納まります。
そういう瞬間一つ一つが、明確な色、匂い、感触を伴った質感として記憶に残っています。
たぶん、これがクオリア。誰もが持っているクオリアです。
そういうクオリアがたくさん心に存在するってのが、素敵な人生ってことなんですかね。
釣りにばっかり行ってないで、「春彦が小さいとき、こんなことがあってなあ」なんて、家族の素敵な昔話がたくさんできるように、日々精進いたしますです。押忍。
荒川の公園で。すぐ裸足になる優ちゃん。 |
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